《原爆症認定集団訴訟@被爆64年》 の最新情報

広島・長崎に原爆が投下されて60年+α。今、被爆者に癌などさまざまな病気が発症しています。被爆者が「原爆症認定」を求めておこした原爆症認定集団訴訟について、弁護団から最新情報を提供します。

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原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌②

京都から小高さん提訴 2003年11月5日(水)・大阪地裁

 京都の被爆者も立ち上がった。
 原爆症認定申請を却下された被爆者が、処分の取り消しと一人300万円の損害賠償を国に求めている集団訴訟で、11月5日、近畿在住の4人が大阪地裁に第3次追加提訴した。これで近畿グループとして大阪地裁で統一して戦っている原告は大阪、兵庫各4人と京都1人の計9人となった。
 この日、京都から初めて提訴したのは京都市南区の小高美代子さん(79歳)。午後3時ごろ、京都原水協の小杉功事務局長や田淵啓子さんに付き添われ、大阪地裁の1階ロビーにやってきた。ほどなく、大阪の原告の一人、門真市の甲斐常一さん(78歳)と大阪原水協関係者、弁護団の尾藤廣喜、徳岡宏一朗両弁護士らも合流。午後3時半、そろって1階の受付窓口に行き、訴状を出した。手続きは短時間で終わった。

 訴状によると、小高さんは被爆当時20歳だった。夫が南方へ出征しており、1945年8月1日から広島駅前の商店街の中にある親族方に同居していた。妊娠5ヶ月だった。あの朝、小高さんは土間の炊事場で米をといでいた。突然、稲光の数万倍かと思うほどの閃光。そのまま気を失った。意識を取り戻したとき、小高さんは半倒壊した隣家の屋上にあった庭に立っていた。爆風に吹き飛ばされたのだろう。爆心地から1・8kmでの被爆だった。
 倒壊した建物の下敷きになっていた家族3人を探し、必死に土を掘って助け出し、親族らとともに広島駅の北東にあった東練兵場を通って中山村まで逃げた。人がいっぱい死んでいた。「黒い雨」にもあった。避難先の村の農家につくと負傷者だらけ。炊き出しや負傷者の手当を手伝おうと汚れたワンピースを脱いだところ、シュミーズの背中が血で真っ赤になっていると指摘され、初めて背中一面に大怪我をしていることに気づいた。その夜は、腹部がものすごく痛み、もしや流産ではと皆が心配してくれたが、何とか持ち直した。
 その後、小高さんは同月8日、五日市の夫の知人宅へ行き、10月中旬ごろまで過ごす。五日市に着くまでも、あちこちで行われていた遺体焼却でできる灰を吸い込み、地面や遺体の残留放射線を浴び続けた。五日市でも当時、一日中遺体が焼かれており、その灰を吸い込んでいる。8月10日ごろから、ちょっと指先を切っただけで血が止まらない、櫛で髪の毛をとかすとバサッと大量に抜けるといった症状が出始めていた。

 ・原爆ぶらぶら病といわれる症状
 ・貧血
 ・変形性膝関節症
・変形性脊椎症
 ・甲状腺機能低下症
 ・喘息様の呼吸困難
 弁護団から提供された原告資料で、小高さんの病気名は以上のように記載されている。山口の母の実家に帰り、翌46年1月、長女出産。47年には復員してきた夫と東京で生活するようになった。病気知らずだったのに、被爆後は体の不調が続き、1953年ごろから倦怠感がひどくなり、いわゆる原爆ぶらぶら病といわれる症状がずっと続いたという。
 68年、小高さんは京都へ引っ越してきたが、そのころから貧血で倒れることがしばしば起こるようになった。90年代に入って、のどが腫れ、発語に支障が出てきたため、96年5月、久世診療所で診察を受けた結果、慢性甲状腺炎による甲状腺機能低下症と診断された。入退院を繰り返しながら治療を継続中だ。
 2002年12月6日、原爆症の認定申請をしたが、03年8月7日、却下処分が小高さんのもとへ伝えられた。

 この日午後4時から、大阪地裁2階の司法記者会室で小高さん、甲斐さんが記者会見をした。始まる前に徳岡弁護士らが「名前や顔が分かってもいいですか」と念を押し、二人はうんうんとうなずいていた。何気ないやりとりだが、被爆者への行き届いた配慮が感じられ、うれしかった。被爆者への社会的差別は想像を絶するものがある。そのことを恐れ、被爆者健康手帳の交付申請さえできずにいる被爆者が多数存在するという。58年経った今なおだ!
小高さん、甲斐さんの順に十分ぐらいずつ思いをしゃべった。
小高さんは「ピカドンというけど、私はピカしか知らない。ドンは聞いていないんです」といい、真っ暗なところを歩く臨死体験をしたこと、「死にたくない、死にたくない」と必死に叫んでいたら、どこからか光が射してきて、意識が戻ったことから話し始め、訴状にある被爆後の惨状とその中で過ごした自分について語った。「はっきりいって思い出したくもないのです」と何度も口にした。「戦争を知らない若いあなたたち(記者)に失礼かもしれないけど、みなさんも火傷して皮膚の一部が水ぶくれになったこともあるでしょう。でも、火傷が身体全面なのよ。顔が腫れ上がってお地蔵さんみたいな人ばかりなのよ。もう二度とたくさん…」。途中で少し苦しくなり、「声が出にくくなるので、ごめんなさいね」と持参したお茶を一口ふくんだ。最後に「しかし私も来年80歳。何もしゃべれないまま死んでいった人が沢山いるわけで、その人たちのためにもと思って今回の裁判となり、こうして出てきました。どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。「ほんとにやっちゃいけないと思いますよ、戦争は」と比較的若い司法記者会の記者たちに、諭すように繰り返したのが印象的だった。
甲斐さんは「入市被爆者」の一人で、その間の事情などを話した。
尾藤弁護士は、小高さんについての補足説明で、去年同じように1・8km被爆で病気も同じ甲状腺障害の人が原爆症と認定されており、彼女が却下された根拠は薄弱だ、と国を批判した。
今後の公判日程は、次回が12月10日(水)、次々回が2004年1月30日(金)いずれも午前11時からと予定されている。1月30日の審理では、原告弁護団側が、被爆地の惨状や後遺症の実態をより理解してもらうために、と証拠として取り調べるよう地裁に求めていた映画が、法廷内に大型スクリーンと映写機を入れて上映されることが決まった。広島、長崎両市企画の「ヒロシマ・ナガサキ-核戦争のもたらすもの」(82年、岩波映画製作所)で、46分のビデオ。小高さんらの記者会見のあと、両弁護士が記者団にこの話を伝え、翌6日付朝刊各紙は社会面に目立つ扱いで報道した。

この日の提訴で、集団訴訟の原告は全国8地裁計109人と拡がった。被爆者たちはどんな気持ちで立ち上がったのか。この日の訴状に書かれている「原告らとその思い」をしっかり受け止めよう。

 この訴訟で原告となった被爆者達は、自らが原爆症認定されることにより家族が差別されるかもしれず、自らの身体をもって、更には被爆体験を語ること自体が多大な苦痛を伴うにもかかわらず、自らの体験を語ることによって、原爆が如何に残酷なものかを明らかにしようとしている。
 そして、我が国が戦争による原爆被害を受けた唯一の国であるのに、原爆被害の実態が忘れ去られようとしている今日において、自分の苦しみを国に認めさせることにより、我が国政府の被爆者対策、そして更には政府の核兵器についての政策を転換させ、世界の核兵器の廃絶につなげたいという思いが、原告ら被爆者をこの原爆症認定訴訟に立ち上がらせたのである。
それは、被爆者にとって、原爆により自分達の代わりになったかもしれないで死んでいった人々に報いることである。また、それは、戦後の自ら受けた苦しみを国に認めさせることにより、自分たちと同じ苦しみを世界中の誰にも再び味あわせることのないように願って、核兵器のない世界をつくる礎となろうとする被爆者の強い意志に基づくものなのである。
以上
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