《原爆症認定集団訴訟@被爆64年》 の最新情報

広島・長崎に原爆が投下されて60年+α。今、被爆者に癌などさまざまな病気が発症しています。被爆者が「原爆症認定」を求めておこした原爆症認定集団訴訟について、弁護団から最新情報を提供します。

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原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌-10

被爆の絵で意見陳述―追加提訴組の初公判
2004年11月17日(水)・大阪地裁

 今年、世界の人びとがもっとも注目し、かたずを呑んで見守った選挙、米大統領選挙は11月3日、ブッシュ大統領の再選に終わった。直後の8日からイラク駐留米軍は、中部の都市ファルージャへの総攻撃を展開、抵抗勢力を制圧しにかかった。
情報統制のため全容はまだ明らかになっていないが、米軍の無差別攻撃で多数の一般市民が死傷したことは確実である。世界の人びとの間からあらためて、アメリカの無法な侵略戦争に対する怒りの声が高まりつつある。そうした時期に、原爆症認定集団訴訟・近畿の公判が開かれた。11月17日、大阪地裁。この日は、9月3日に追加提訴した京都、大阪、兵庫の計4人についての初公判が、午後1時半から本館2階202号法廷で行われ、原告のうち大阪府堺市の中ノ瀬茂さん(69歳)と、京都市北区の寺山忠好さん(74歳)が意見陳述した。

 中ノ瀬さんは、長崎の被爆者である。6歳の時に母を亡くし、父は戦時中、軍属として中国に出征。ひとり、長崎の遠い親戚の家に預けられていた。食糧難のため、どこからか食料を調達してこないと家にも入れてもらえない。あの日、戸外にいて、直接的には爆風で神社の石垣に叩きつけられた程度だったが、その後2週間ほど、食料を探しに長崎駅周辺に通い続けた。爆心地付近への頻繁な立ち入りで残留放射線が体内に入り込み、中ノ瀬さんの体をむしばんだのである。
様々な病気に悩まされ、1998年には舌がんの手術をしなければならなかった。妻も入市被爆者。子どもたちも病弱だ。厳しい家族状況を述べた最後に、中ノ瀬さんは「親子兄弟をずたずたにする原爆が憎い。近ごろ、生きていくのがいやになった。一服飲めばすぐに楽になれる薬はないものか。そんな気持ちです」と語って約10分の陳述を終えた。
次の寺山さんは、異例の陳述となった。
寺山さんも長崎の入市被爆者である。当時15歳。大村第21海軍航空廠で製図の実習中、長崎方向に光線を見た。防空壕に避難した。そして翌々日の8月11日、家族を捜して爆心地のすぐ近くにあった自宅に行き、大量の残留放射線を浴びたのである。その後の長い闘病と入、通院の人生。いまも体調が悪く、原告として出廷ができない。しかし被爆の実相をなんとしても訴えたい。弁護団や支援者が考えた末、寺山さんが10年前、自身の被爆体験を描いた約40枚の絵を法廷で裁判官に見てもらおう、となったのである。
1993年、心筋梗塞に倒れ、入院中、生死の境をさまよいながら見たのは原爆の夢ばかり。「自分はこんなに重いものを背負ってきたのか」とあらためて思い、事実を絵にしようと決意。2年がかりで完成させた。被爆50年の夏、「むごかね むごかね こぎゃんことあってよかとね」と題して、京都市内で平和団体が開いた催しで初めて展示された(京都新聞95年7月11日付に紹介記事)が、その後はほとんど眠っていた。
法廷内に大型スクリーンが据え付けられ、寺山さんの絵がパワーポイントを使って一枚一枚映し出される。“ナレーター”役の尾藤廣喜弁護士が弁護団席から、聞き取りに基づく寺山さんの証言をそれに重ねていく。大村から長崎方面に見た、赤く、どす黒く、天に昇って行く雲。原爆投下の2日後、長崎の自宅にかけつけた時、眼前に繰り広げられた地獄絵。電車の中の死体の山。川に浮かぶ無数の死体。まだ煙が上がっている自宅の瓦礫の中に見えた半焦げの母、弟、妹二人、上のおばさんの死体。姉も姉の子どもも死んでいた。助かりはしたが焼けただれぼろぼろの義兄を戸板に乗せて救護所に運ぶ…。
展開された絵は30枚はあったろう。死者を直視し、死者に寄り添う寺山さんの息づかいが、絵の一枚一枚に乗り移っているように思えた。「原爆投下から59年。苦しみながら生き、仕事もなにもできなかったこの人生を、国にきちんと認めてもらいたい。いままたイラクでたくさんの家族が殺されている。それはまさに59年前の長崎を思い出させる。あんなむごか戦争をしたのはだれか。いまも核兵器を持つアメリカについていく小泉首相は許せない」。尾藤弁護士に託された寺山さんの思いが述べられて約25分間の陳述は終わった。裁判官、原告、原告・被告代理人、傍聴者のすべての目が、この間、スクリーンに釘付けになった。被爆者が描いた原爆の絵は数多く残されているが、原爆裁判の法廷で、原爆の絵をこんなに使った意見陳述は初めてではないか。午後2時10分すぎ、閉廷。

半時間後、地裁から少し歩いた北区菅原町、いきいきエイジングセンターで報告集会が開かれた。今回も、集会で報告された悲しい事実を書き留めておかねばならない。京都市山科区在住の広島の被爆者で、昨2003年4月末、原爆症認定を申請していた大野信夫さんがこの10月24日、入院中に亡くなった。がんが体中に転移していた。申請は却下され、その書類は大野さんがまだ生きていた10月5日に届いたが、病状の急変などから、大野さんは却下の事実を知らぬまま他界した。無念である。
支援ネット・兵庫事務局の梶本修史さんからは、①支援ネット・兵庫の結成1周年の総会が11月6日、神戸市立婦人会館で開かれ、県下各地から32人の支援者、被爆者らが参加。裁判の勝利に向けて決意を語り合った。②裁判所に公正な判断を求める署名は3府県で計2003筆分が11月15日に提出され、署名総数は22091筆に達した―と報告された。
大阪地裁での近畿原爆症裁判はいよいよ大きな山場を迎える。次回の第10回口頭弁論は12月15日(水)午前11時~午後4時半。原告側申請の沢田昭二・名古屋大名誉教授と、被告側申請の小佐古敏荘・東大原子力研究総合センター助教授の証人尋問(それぞれの主尋問)がある。次々回の2005年2月23日(水)は午前11時~午後4時半。両氏に対するそれぞれの反対尋問が行われる。これまで原爆症裁判の判決で何度も批判されながら、国が固執し続ける被爆者切捨ての認定基準の誤りを、今一度、徹底的に解明する場だ。被爆60周年の明るい展望を切り開く大事な勝負どころである。         以上
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