《原爆症認定集団訴訟@被爆64年》 の最新情報

広島・長崎に原爆が投下されて60年+α。今、被爆者に癌などさまざまな病気が発症しています。被爆者が「原爆症認定」を求めておこした原爆症認定集団訴訟について、弁護団から最新情報を提供します。

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原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌⑬

勇気づけられる東原爆裁判「勝訴確定」 本人の証拠調べ始まる―3原告が出廷
2005年4月22日(金)・大阪地裁

 原爆症認定集団訴訟は、前回公判以後、埼玉県でも提訴され、全国13地裁で18都道府県、168人の被爆者が国を相手に戦う広がりを見せている(3月25日現在)。こうした中で、4月22日、近畿地区(京都、大阪、兵庫の3府県)でこれまでに提訴している13人のうち先発組9人についての証拠調べ(本人尋問)が、大阪地裁で始まった。

 それに先立って、原告たちを勇気づける風が吹いた。
C型肝炎を原爆症と認めてほしいと訴えていた東(あずま)原爆裁判の原告で長崎の被爆者、東数男さんは2004年3月末、東京地裁で勝訴判決を勝ち取ったが、不当にも国は控訴。東さんは今年1月29日、76歳で亡くなり、朝子夫人が訴訟を承継していたが、東京高裁は3月29日、国の控訴を棄却、国側は4月11日、ついに上告断念を決め、高裁判決が確定したのである。
これで、国側は、松谷・長崎原爆訴訟(地裁、高裁、最高裁)、小西・京都原爆訴訟(地裁、高裁)、東・原爆裁判(地裁、高裁)と7度続けて敗訴したことになる。しかも、今回の東京高裁判決は、過去の諸判決も踏まえ、被爆者を切り捨ててきた国の原爆症認定審査の方法や「原因確率論」に根本的疑問を投げかけたものとなった。
その点に関連して、この日午前の公判終了間際、原告弁護団の尾藤廣喜弁護士は発言を求め、「東京高裁の判決は、本件訴訟の先例として非常に大きな意義があり、裁判長も今後の審理に十分反映してほしい」と要望した。原告弁護団は同判決の内容分析結果を準備書面として提出したが、その「結論」は以下のように述べている。
「以上の通り、東京高裁で確定した本判決は、従前の厚生労働大臣の拠って立って来たDS86と『しきい値』論をまたも否定し、さらに、松谷最高裁判決を踏襲し、『高度の蓋然性』の判断の基礎となる事実と判断基準について、これを実質的に緩和し、原爆による放射線とは別個の原因であるC型肝炎ウイルスに感染している被爆者についても、その肝機能障害に対する放射線の『起因性』を認め、原爆症と認定するというあてはめを行なったものである」
「具体的には、被爆者が原爆放射線の影響している可能性がある疾病に罹患している場合には、当該被爆者の原爆放射線による急性障害の状況や被爆後の免疫機能の低下の事実、被爆後の体調について原爆による影響をさまざまな形で被っていたことがうかがわれる事実があるかどうかを分析したうえで、原爆起因性を認めているのである」
全国弁護団連絡会事務局によると、集団訴訟の原告168人のうち24人が東さんと同じようにウイルス性肝炎である点でも、また、集団訴訟の原告のうち10人がすでに亡くなっていることを考えると、東さんの死後、遺族に裁判が引き継がれて判決が出た点でも、集団訴訟の今後に大きな意味を持つものとなったという。

第12回公判となったこの日の本人証拠調べは午前10時半から昼食休憩をはさんで午後5時前まで行なわれ、広島で被爆した原告3人が出廷、一人あたり1時間半ぐらいの時間をかけて、原告、被告代理人や裁判官の質問に答えた。午前は、大阪市城東区の木村民子さん(68)=8歳の時、通学途中に爆心地から約2キロの地点で被爆=。午後、大阪府岸和田市の川崎紀嘉さん(79)=19歳の陸軍兵士として被爆直後の爆心地付近で遺体処理にあたった「入市被爆者」=と、京都市南区の小高美代子さん(80)=爆心地から1・8キロの屋内で被爆。当時、妊娠5ヶ月=。3人ともすでに一度ずつ法廷で意見陳述しているが、今回、弁護団とさらに入念な打ち合わせをして、病状を含めた詳細な陳述書を提出。それをもとに、尋問も行なわれた。
双方代理人との裁判進行打ち合わせ協議に臨む西川知一郎裁判長のこれまでの言動などから、早ければ今秋の結審も考えられる、と原告弁護団は見ており、今後の公判日程をにらむと、原告にとっては、個別の証拠調べは基本的にワンチャンスしかない。
 それだけに、原告弁護団は、裁判官に個々の原告がどのような状態で被爆し、どのように残留放射線を浴びたのか、理解してもらうために、懸命だった。小高さんを担当した久米弘子弁護士は、小高さんが被爆当日、広島駅北方の旧中山村に避難し、2日後、五日市の知り合い宅へ移るまでの足跡を、地図や写真を使いながら、話してもらう方法をとった。広島駅から途中の己斐駅までは乗り物もなく、小高さんがさまようように爆心地付近を通って歩いた現場の様子を少しでも感じてもらおうと、被爆写真集から選んだ、荒涼とした焼け野原、折り重なる遺体など何枚もの写真を、廷内に設けたスクリーンに映し出し、「この瓦礫の街、この道を歩いたのですね」と、小高さんに尋ねていった。
 原告も必死だった。小高さんは被爆後しばらくして脱毛症状に遭った。陳述書に「頭に櫛を入れるとバサッと異常にたくさん抜けた」とある。どのくらい抜けたのか、と田中健治裁判官が尋ねた。小高さんは、「これぐらいです!」と、頭髪をむんずと掴んで、いまにも抜けそうなほど強く引っ張り上げた。もう4,5回やれば丸坊主に近くなるぐらい大量の髪の毛が指の中に握られていた。

 一支援者としてこの裁判を傍聴し続ける中で、小高さんと知り合い、何度か被爆体験を聞かせていただいた私は、昨年8月のある日、小高さんが被爆した広島駅前の猿猴橋商店街から避難先の旧中山村への道と、2日後の広島駅から己斐駅までの道を実際に歩いてみたことがあった。黒い雨にあったという農道も、いまはない。こんな方向だろうと見当をつけてひたすら歩いた。数冊の写真集を事前に繰り返し眺め、残像を頭の中に叩き込んで歩いた。小高さんの体験に、わずかでも近づきたかったからである。原爆ドーム横を通ったとき、この600m上空で太陽の表面温度より高い数千度度にも達する超高温の火球が出現し、瞬時にして多くの市民が焼き殺されたのだと考えると、背筋が寒くなったのを思い出す。
だが、小高さんは、その焼き殺された市民の死体の中を、実際に歩いたのだ。証言台で「右も左も、死体、死体。川の中も死体、死体。初めはこわい、イヤッと目をつぶりましたが、そのうちに、この人真っ黒になって死んでるわとか、赤ちゃん抱いてるわとか、冷静になっている自分に驚き、これだけ死体の中にいると神経に異常がおきてくるんだなあ、それで戦争をするんだなあと思いました」と語るのを聞いて、私は圧倒されるばかりだった。
 あらためて裁判官席を見上げる。西川裁判長、1960年生まれの45歳。陪席の二人ともども、戦後生まれの若い裁判官たちは、被爆の実相にどう近づいてくれるのだろうか。私は祈るような気持ちになっていた。
 原告弁護団から、本人尋問の最後に「裁判長に言っておきたいことがあれば、どうぞ」と水を向けられ、3原告が語ったひと言を記録しておく。
 木村さん この大阪市で、被爆58年も経って、私が原告第1陣と知って驚いた。何千人
も被爆者がいるだろうに。でも、原告になるには、やはりある程度、忍耐力と精神力と体力がいる。そうしたくても踏み切れない人が沢山いる。みんなの代表だと思って頑張っています。
 川崎さん 歳が歳ですから、先がないと思っている。東京の(原爆裁判で)東さんは亡くなってから認定がおりた。生きているうちに原爆症と認定してほしい。それだけで私たちは頑張ってきたのですから。
 小高さん この8月で81歳になる。でも、私はまだこれだけ口がきける。口もきけない方がたくさん苦しんでいる。その人たちの代理のつもりで、こうして出てきている。本当に、つらい人たちを助けていただきたい。

 閉廷後まもなく、大阪弁護士会館で報告集会があった。次回公判は5月20日(金)午前10時半から、大阪地裁202号法廷で。大阪市生野区の佐伯俊昭さん(72)に対する証拠調べになる予定。佐伯さんは喉頭がんの手術で発声が不可能なので、本人の陳述は筆談になる。このため午前、午後とも時間を使うことになったと弁護団から説明があった。
 原爆訴訟支援近畿連絡会からは、近畿原爆症訴訟の勝利をめざして「原告を励ます支援のつどい」を5月15日(日)午後2時―4時、大阪府保険医協会5階会議室(大阪市浪速区幸町1-2-33)で開くと報告された。
以上
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