《原爆症認定集団訴訟@被爆64年》 の最新情報

広島・長崎に原爆が投下されて60年+α。今、被爆者に癌などさまざまな病気が発症しています。被爆者が「原爆症認定」を求めておこした原爆症認定集団訴訟について、弁護団から最新情報を提供します。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌-18

病気で出廷できない美根さんへの出張尋問
2005年12月2日、記す

 12月14日の原爆症認定集団訴訟・近畿の最終弁論を前に、気にかかっていたことが一つある。法廷での原告証拠調べは終わったが、病のため出廷できない原告、神戸市北区の美根アツエさん(78歳)について触れることができずにきたことだ。
美根さんに対しては9月20日、自宅への出張尋問が行われていた。私は傍聴することはできなかったが、このほど、原告弁護団の大槻倫子弁護士から、そのときの模様を聞けたので、記録しておく。

 美根さんは奄美大島の出身である。大島紬の機織りの仕事をするようになってしばらくたった1943年(昭和18年)の春ごろ、役場から「挺身隊として長崎に行くように」と命令が来て、親元を離れ船に乗る。これが美根さんのその後の人生を左右した。
 長崎で、三菱兵器大橋工場に配属され魚雷のネジ造りの仕事に従事、市内東北部の三菱兵器住吉女子寮に住んだ。1945年の8月9日は夜勤明けで、寮に帰り、熟睡していたとき、原爆が炸裂した。爆心地から約2キロにあった住吉女子寮は一瞬のうちに倒壊し、美根さんは建物の下敷きになる。なんとか逃げ出せ、近くの三菱兵器トンネル工場に避難したが、爆風で吹き飛ばされたガラスの破片が体のあちこちに突き刺さり、全身血だらけだった。もっとひどい重傷者も次々避難してきた。
 夕方、歩いて寮まで戻ると、焼け跡から運び出された大火傷の寮生がいっぱい転がっていた。逃げ出せず焼死した人もいる。指示があって諫早方面に行く汽車に長時間揺られて、下車。山の上のお寺に避難した。
 突き刺さったガラス片は何日かして、軍医が取ってくれたが、膿が出てなかなか止まらず、また、そのころから下痢症状が出て、何日も続いた。
 終戦後、美根さんは奄美大島に引き揚げる。小さいころは風邪一つひいたことがなく、長崎の工場でも無欠勤だった元気な美根さんの体が、被爆を境に変わってしまった。言いようのない倦怠感、ふらつき、貧血…。結婚、子育て、転居。必死で頑張ってきた人生だったが、10年ほど前から、毎年1回は喘息のため入院しなければならず、1999年には肺がんで摘出手術を受けた。02年には転移性脳腫瘍と診断され、定期的に検査を受けている。夫に先立たれ、ひとり暮らしの日々。陳述書で美根さんは「家族や親戚に、がんにかかった人など一人もいません。私ががんになったのは原爆のせいに間違いないと思っています。国には、そのことをきちんと認めてほしい」と訴えている。

大槻弁護士によると、出張尋問は、午後2時半から約1時間、市営住宅の自宅で行われた。6畳の間にコタツ机など二つ並べ、裁判所側から田中健治裁判官と書記官ら、原告弁護団からは藤原精吾団長と大槻弁護士、それに被告国側代理人2人が美根さんを囲むように座り、本人尋問が行われた。美根さんの体調を気遣い、主尋問も手短にしたという。認定申請時の書類に不正確なところがあり、陳述書ではそのへんをきっちりさせたので、「陳述書通りで間違いないですね」と確認を求めただけ。国側は食い違いの部分をあれこれただし、反対尋問の方が余計時間がかかった。午後3時には、美根さんが毎日やっている喘息治療の吸入のため、数分間、中断した。田中裁判官の質問は、被爆後の行動が陳述書通りであることを確認するためのものだったという。最後に藤原団長が「突然、原爆に遭って大変な思いをされてきたわけだが、国は被爆者に対して、できることを十分してくれていると思うか」と感想を求めると、美根さんは「してません。足りません」と答えた、という。
美根さんの出張尋問は、体調がすぐれないため何度も延期されたが、大槻弁護士の話では裁判所側も実施に意欲的で、法廷での他の原告尋問がすべて終了してから約3ヵ月後にようやく実現した。裁判所の姿勢としても、また美根さんにとっても、よかったのではないか。

いよいよ12月14日、結審の日が来る。近畿は全国の集団訴訟の先頭を行く流れにあるが、各地の公判の動きを追っているうちに、気になりだしたことを、最後にメモしておきたい。熊本地裁を舞台に戦っている原爆訴訟でこのほど、一連の訴訟では初めて長崎での「現場検証」が行われた、と長崎新聞に出ていた(11月25日付)。裁判官、原告、原告・被告双方代理人による被爆地点などの視察で、爆心地公園や長崎原爆資料館も訪問した、とあった。その記事を読んで思ったのは、この集団訴訟にかかわっている各地裁の裁判官は、広島と長崎の原爆資料館にきちんと足を運んでいるのだろうか、ということだった。
広島原爆資料館の場合でいえば、被爆60年の今夏、開館50年を迎え、入館者累計は5千万人を超えている。35年前から、来館者に感想を書いてもらうため置いた「対話ノート」は、これまで国内外の約90万人がつづり、920冊を超えた。京都・かもがわ出版の編集者、鶴岡淑子さんが、100日間かけそのすべてに目を通して生まれた本「ヒロシマから問う―平和記念資料館の『対話ノート』」(かもがわ出版、2005年7月刊行)には、来館者が受けた強烈な印象が収録されている。目立つのは、為政者こそ資料館に来てもらいたい、との声である。それは原爆症認定集団訴訟にかかわる裁判官に対しても言えるのではないか。
展示資料・内容は年とともに充実してきている。失礼な、そんなこと常識だろうと言われるのを承知であえて要望したい。この訴訟にタッチするすべての裁判官は、広島と長崎の原爆資料館を必ず訪ね、最新の展示内容をもう一度直視し、そのうえで判決を書いていただきたい。どうぞよろしくお願いします。
以上
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://genbaku.blog46.fc2.com/tb.php/31-4cbda41f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。