《原爆症認定集団訴訟@被爆64年》 の最新情報

広島・長崎に原爆が投下されて60年+α。今、被爆者に癌などさまざまな病気が発症しています。被爆者が「原爆症認定」を求めておこした原爆症認定集団訴訟について、弁護団から最新情報を提供します。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

原爆症認定集団訴訟・近畿の公判傍聴日誌-19

全国のトップきり結審、判決は2006年春 原告、弁護団、支援者ら心一つに最終弁論
2005年12月14日(水)・大阪地裁

 12月14日。最低気温、大阪2・0度、神戸0・7度、京都-0・9度。軒並み平年を下回る寒い朝だった。しかし、大阪地裁202号法廷は、開廷15分前の午前10時15分ごろ、すでに熱気であふれかえっていた。「裁判所です。傍聴席はもう満席です。
恐れ入りますが、立ったまま傍聴はできませんので、外に出てください」と職員が大声で促す。残念。ぞろぞろと廷外に出る人たち。それでも、後刻、原爆訴訟支援近畿連絡会が開いた報告集会で聞いた話では、示し合わせ途中交代で傍聴した人、あるいは法廷の扉の小窓にかじりつくようにして数10分間も廷内の様子、裁判官の表情をウオッチし続けた人もいたという。こんな法廷内外の熱い気持ちに包まれるようにして、証言台の前には、この日、出廷できた6人の被爆者原告が座った。文字通り立錐の余地もない原告弁護団席。原告と弁護士一人ひとりの胸には青色の折鶴がつけられ、もう心が一つに解けあっていた。
 やがて、西川知一郎裁判長ら3人の裁判官が着席。一瞬、静まり返った廷内に報道用ビデオ撮影の音が流れる。10時半かっきり、全国12地裁で繰り広げている原爆症認定集団訴訟のトップをきって、近畿地区の被爆者原告13人のうち先発組9人についての最終弁論が開始された。

 原告弁護団が用意した最終準備書面は200頁に及ぶ力作と聞いていた。私は、弁護士の人たちがそれをひたすら読んでいくものと思い込んでいた。そうではなかった。
 最終弁論は、尾藤廣喜弁護士が、原爆詩人・峠三吉の詩を読むことから始まった。「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ…」。パワーポイントで弁護団席後方のスクリーンに峠三吉のあの詩が流れるように映されていく。「この詩に込められた被爆者の思いは、切実であり、根源的であります」。尾藤弁護士は、この訴訟で被爆者が何を求めているのかを、大阪高裁の勝利判決確定まで14年もかかった京都原爆小西訴訟を振り返りながら訴え、裁判所は、▽原告の要求を真摯に受け止め、認めよ。▽被爆の実態を無視した国の制度運用を批判し、実態にあった認定基準の確立を判決に明記せよ―と主張した。

 広島地裁を舞台にたたかっている佐々木猛也・広島弁護団長が立った。45人の原告のうち4人が亡くなっているといい、原爆症認定申請をいまだ大量に却下し続ける国の無責任な対応をそのままにして「司法の権威」はどうなるのかと問い、「全国ではいま167人がたたかっている。さらに多くの被爆者が立ち上がるだろう。広島も来年2月に結審するが、大阪のこの裁判は、あとに続くものに大きな影響を与えるだろう。国が反省し、被爆者が勇気づけられるような判決をお願いします」と訴えた。

 これまでの口頭弁論の論点整理が展開される。国の認定審査基準の誤り(DS86・原因確率論の誤りと内部被曝の重大性)について有馬純也弁護士。過去の原爆症認定訴訟の到達点(判例)を中森俊久弁護士。被爆者に対する「国家補償」責任問題について徳岡宏一朗弁護士。そして、豊島達哉弁護士が、国の認定基準が正しい基準たりえないことは幾多の判決で司法上も決着済みになったと断じ、今後あるべき認定基準について、長く被爆者診療に携わってきた医師集団の意見書(原告側証拠提出)なども踏まえ、次のように提示した。
「ア、原爆放射線による被曝またはその身体への影響が推定できること。
イ、原爆被爆後に生じた白血病などの造血器腫瘍、多発性骨髄腫、骨髄異形成症候群、固形がんなどの悪性腫瘍、中枢神経腫瘍のいずれかに罹患していること。
ウ、原爆放射線の後影響が否定できず、治療を要する健康障害が認められること。
 上記のアの要件が認められ、イに該当する場合、または、ウに該当する場合において、現に医療を要する状態にある場合には、原爆症と認定されるべきであります」

 被爆者自身の口から被爆の実相を裁判官に語ってもらう―原告弁護団が一貫して追求してきた方針が、最終弁論でも貫かれた。弁護士による弁論の合間、合間に、今一度発言のチャンスができた原告が証言台の前に出て、裁判官と向き合った。深谷日出子さん(兵庫県篠山市)=18歳、広島で被爆▽佐伯俊昭さん(大阪市生野区)=12歳、広島で被爆▽甲斐常一さん(大阪府門真市)=20歳、広島で入市被爆▽小高美代子さん(京都市南区)=20歳、広島で被爆▽木村民子さん(大阪市城東区)=8歳、広島で被爆▽葛野須耶子さん(神戸市北区)=15歳、長崎で被爆(以上、発言順)の6人。主役は、やはり最後まで被爆者だった。
 短い時間だったが、みんな、それぞれの思いを一生懸命、裁判官にぶつけた。弁護団後ろのスクリーンには、広島、長崎の惨害の写真が次々に映しだされる。車いすで証言台の前に出た、一番年長で、被爆当時妊娠5ヶ月だった小高さんは、「娘は10年前に子宮がんで手術をしましたが、私は『胎内にいたのでよかったなあ』と思っていたのに、肥田先生(原告側証人の被爆医師・肥田舜太郎氏)のお話を聞き、胎内被曝もひどかったのだと言われてびっくりしました」と話すうち、涙声になった。あの、気丈な小高さんが…。しかし、かみしめるように語った締めくくりの言葉に、私は心を揺さぶられた。
 「苦しいことばかりの人生でしたが、この歳まで生かされているということは、先に犠
牲になられた多くの方々が、被爆の実態を後世に伝えて、核兵器をなくして、戦争は絶対にしないで…と私を支えているのだろうと思います。お願いです。60年もアメリカからも日本政府からも見捨てられ、苦しみだけを背負ってわずかしか残っていない命と向き合って細々と生きている被爆者を助けてください。こんなことをしていると、100年も地球は持ちません」
 小高さんは、ついに一人の地球市民として、訴えたのである。

 しんがりは藤原精吾弁護団長がつとめた。「原告も代理人も裁判所も同じ地球市民なのです。この地球上から核兵器をなくすことは、どのような立場にあろうと共通の願いです。原告らの被爆体験を、過ぎ去ったものではなく、今も現に存在するものとして受け止めること、裁判所がこの問いかけに正面から答えられることが、平和を願う世界の人びとへの強力なメッセージとなるでしょう」。
 被告代理人からの発言はなかった。西川裁判長が「これをもって本裁判の口頭弁論を終結します。判決の期日は追って通知いたします」と述べ、午後零時15分、閉廷した。

 報告集会は零時40分から、裁判所近くの電子会館8階会議室に、原告、弁護団、支援者ら、つい先刻まで202号法廷を埋め尽くしていた大半の人びとが集まって開かれた。
 CD「にんげんをかえせ」(1枚1000円、うち500円を支援金に)で裁判支援を続けている歌手の横井久美子さんが、全国に先駆ける大事な近畿の裁判をぜひ応援しようと東京からやってきた、とあいさつした。「今日、この日にも、声も出ない、歩くこともできない人たちが、国に訴えなければならないなんて悔しい。それだけに、この12・14の場面を世界中の人びとに知ってもらいたいと思う。みんなの力を合わせて頑張りましょう」。
 千葉、名古屋、熊本、東京でたたかっている弁護団の代表が、最終弁論傍聴の感想と決意表明。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の田中熙巳事務局長もかけつけ、「これからは政府を攻める運動を大きくしていきたい。被団協として、第2次の集団申請を呼びかけることを決めました」と語った。
 原告のうち木村さん、葛野さん、小高さん、佐伯さんがお礼の言葉を述べた(佐伯さんは咽頭腫瘍摘出で発声できないので久米弘子弁護士がそばでメモを読む)。他の3人の原告は残念ながら入院、あるいは体調すぐれずこの日出廷できなかったことや、追加提訴者がまだ4人いることを忘れないで―と弁護団からひと言。
 小杉功・京都原水協事務局長ら原爆訴訟支援近畿連絡会関係者からは、いよいよ法廷外でのたたかいが勝負になってくる、として2006年3月11日(土)午後2時から、大阪市立いきいきエイジングセンター(大阪市北区菅原町10-25、ジーニス大阪・東棟3階)ホールで、「近畿原爆訴訟の勝利判決をめざすつどい」を開くことが発表された。また、公正な判決を望む署名が4万筆を突破した、もっともっと広げよう、とのアピールも。
 尾藤弁護士が「裁判官が判決を書くのはこれからです。判決までにどう世論を広げられるかがかぎです。みなさんの声を大きく寄せていただきたい。いい判決をかちとって、全国の仲間たちに続いてもらいたい」と訴えて、報告集会は午後1時35分、終わった。大きな拍手。よし、もうひと頑張りだ。力がみなぎってくるような集会だった。   以上
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://genbaku.blog46.fc2.com/tb.php/32-71aa03ec
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。